インディアナ・ペイサーズ, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=174736 / CC BY SA 3.0

#インディアナ・ペイサーズ
#NBAチーム
#ABA_(1967-1976年)
#1967年設立のスポーツチーム
インディアナ・ペイサーズ(Indiana Pacers)は、インディアナ州インディアナポリス市に本拠を置く全米プロバスケットボール協会 (NBA) のチーム。
イースタン・カンファレンス、セントラル・ディビジョン所属。
チーム名のpacerとは測定馬のことで、インディアナ州は競馬が盛んな土地である。
また、本拠地のあるインディアナポリスは自動車レースのインディ500が有名で、それに用いられるペースカーにもちなんでいる。
バンカーズ・ライフ・フィールドハウス アメリカでもバスケットボール人気の高いインディアナ州には、かつてインディアナポリス・ジェッツ(もとのコートスカイズ)とその後を継いだインディアナポリス・オリンピアンズというプロチームがあった。
NBA創成期に活動したこの2チームは1950年代前半には消滅。
その後長らくインディアナ州にプロのバスケットボールチームはなかった。
1967年にNBAに対する立場でもう一つのプロバスケットボールリーグABAが結成されると、インディアナにプロバスケットボールチームを求めていた地元の財界人8名が出資しあい、インディアナ・ペイサーズが創設された。
初期のペイサーズはABAを代表する強豪の一つだった。
1970年には59勝25敗で初優勝、1972年には47勝だったものの再び優勝し、翌1973年には2連覇を果たした。
この時代のスター選手はジョージ・マクギニスだった。
ABAは次第に財政難に陥るようになり、リーグは1976年に解散することになった。
翌シーズンよりペイサーズはNBAに新規チームとして参加したが、NBAに支払った加入金が高額であり、その外にも試合のテレビ放送による収益を得ることを禁じられるなどの制限のためにチームは存続の危機を迎えた。
地元財界による支援などで辛うじてこの状況を克服し、以降もペイサーズはNBAのチームとして残ることになった。
ABA時代からチームの監督はボブ・レナードが務めたが、NBA加入後チームの勝率は5割台に届かない年が続いた。
1980年代に入るとジャック・マキニーが代わって監督に就いたがチーム成績は悪化し、勝率は数シーズンにわたり3割程度をさ迷った。
この低迷は80年代を通して変わらなかった。
レジー・ミラー ペイサーズは80年代後半に後の時代の核となる選手を獲得した。
1986年にドラフト4位で指名したチャック・パーソンはそのシーズン新人王になり、トレードされるまでの3年間チームを引っ張った。
翌年11位で指名されたレジー・ミラーはのちにペイサーズ史上最も著名な選手となり、1988年にはオランダ人センターリック・スミッツを獲得した。
1990年代前半までチームは勝率5割程度まで持ち直したが、東地区有数の強豪になるのは1993年に名将ラリー・ブラウンをヘッドコーチに迎えて以降だった。
ペイサーズは勝ち数50程度にまで成長したが、プレイオフではより印象的な活躍を見せた。
東地区のライバルだったニューヨーク・ニックスとの対決や、レジー・ミラーが見せた数々の逆転劇は注目を集めた。
しかしチームはNBAファイナルに進むことはできず、1996-97シーズンには主力の怪我のため成績が低迷し、シーズンが終わるとラリー・ブラウンは辞任した。
ブラウンの後を継いだのはかつて選手として名を馳せたラリー・バードだった。
バードがヘッドコーチに就いた最初のシーズン、ペイサーズはチーム史上最多の58勝をあげた。
このシーズンのプレイオフではシカゴ・ブルズを追い詰めたが一歩及ばず敗退。
翌シーズンも地区決勝でニューヨーク・ニックスに敗れた。
続く1999-2000シーズンにはついにNBAファイナルに進出するが、ロサンゼルス・レイカーズに2勝4敗で敗退した。
バードはこのシーズンを最後に辞任した。
次にペイサーズのヘッドコーチに就任したのはアイザイア・トーマスだった。
リック・スミッツの引退や、ジャーメイン・オニール獲得のためデイル・デイヴィスを放出するなど以降3シーズンは再建の時期に入った。
勝率は5割程度、プレーオフでは1回戦での敗退が続き、トーマス3年目にゼネラルマネージャーに就任したラリー・バードは、現役時代から因縁があったトーマスを解任。
代わってリック・カーライルをヘッドコーチに据えた。
2003-04シーズン、オニール、ロン・アーテスト、アル・ハリントン、ジャマール・…

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